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ものみの搭に関する正直な疑問を述べます。

時間の要求

ものみの塔はなぜ信者に時間のノルマを課すのでしょうか?
正規開拓者は月に70時間(以前は90時間)、補助開拓者は50時間(以前は60時間)、一般の信者は最低月1時間は報告しないと不定期(半年以上であれば不活発)というレッテルを貼られます。
聖書にはどこで何を宣べ伝え何人が信者になったという記録はありますが、何時間奉仕したかを報告したと言うことは述べられていません。
また「集まりあうことをやめないように」とか、「無活動にならないように」とか、「ひたすら宣べ伝える」事は勧められてはいますが、月に何時間以上奉仕しなさいとは述べられていません。
しかしこの組織ではこれが至上命令のように扱われます。
奉仕に活発=いい信者。
という公式が短絡的に成り立っています。
心がどうだとか、人格がどうだとか言うことは二の次なのはなぜでしょうか?
奉仕者の増加=神の是認という尺度がおかしいのです。
また、神を愛していれば奉仕するはずだという思いこみは”奉仕至上主義者”、”奉仕崇拝者”という歪んだ信者を生み出しています。
こういった思いこみから、就職すべき若者が定職に就かずに奉仕をすることを(励ましという名で)強要され、主婦は離婚覚悟で開拓奉仕を始めます。
やがて自尊心を失い自己崩壊して鬱にでもなれば「弱い人」というレッテルを貼られて、「月に1時間でも出ましょう」とか言って無理矢理連れ出されます。
もう、自殺するか失踪でもしなければ許してもらえません。
集会に行けば「もう少し頑張れば開拓ができないでしょうか?」といった類の、良心を苦しめる、脱落者はいらないとばかりの話を聞かされます。
狂ったように信者集めに終始して信者に重い荷をくくりつける事はもうやめて、仲良くやればいいのにと思います。


  1. 2008/02/25(月) 05:19:41|
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良心の問題という問題

WT 98 8/15 17–18p 6–9には、
「証人たちの中には,今なら良心が許容するような何らかの活動にかつて参加を拒んで苦しみに遭った人もいます。例えば,それはある種の一般市民的奉仕に関して幾年か前に自分が選んだ道であったかもしれません。今なら,現在の事物の体制に関するクリスチャンの中立の域を踏み越えることなく,それを良心的に行なうことができる,と考える兄弟もいるかもしれません。

 今なら行なっても何事もないような事柄なのに,それを拒んで苦しみに遭うことをその人に許したのは,エホバの側の不義でしょうか。そのような経験をした人の大半は,そのように思っていないはずです。むしろ,宇宙主権の論争に関して確固としていようという自分の決意を公に,またはっきりと実証する機会が与えられたことを歓びます。だれにせよ自分の良心に従ってエホバの側に確固たる立場を取った人には,そのことを後悔すべきどんな理由があるでしょうか。それらの人は,忠節を尽くしてクリスチャンの原則を自分が理解しているとおりに守ることや,良心の働きかけにこたえることにより,自分がエホバからの友情に値することを自ら証明したのです。確かに,自分の良心に呵責を感じさせる,あるいは他の人をつまずかせかねない歩み方を避けるのは賢明です。・・

 現代でも証人たちの中には,自分たちが何を行ない何を行なわないかに関して非常に厳格な見方を持つ人たちがいました。それらの人は,そのために他の人より多くの苦しみを経験しました。しかし後には,知識が増して,物事の見方を広くするようになりました。しかし,以前に自分の良心に従って行動したことを後悔すべき理由はありません。たとえそのために余分の苦しみを忍ばなければならなかったとしてもそうです。それらの人が進んでエホバへの忠実さのうちに苦しみを忍び,「良いたよりのためにすべての事をする」者であることを実証したのは,本当に褒めるべきことです。エホバはそのような敬虔な専心を祝福されます。」

とありますが、WT、A!、大会での話、協会からの手紙などで小さな事を延々と聖書から説明した結果、訳の分からない規則が沢山設けられました。
真理と言う物は本来時代に合わせて変わると言うものではないはずなので、これらの規則は聖書の中でイエスが非難されているパリサイ人的な重荷ではないでしょうか?

以前にはテレビやビデオ、年金、結婚や子供を設けること、専門学校や短大に行くこと、パソコン、インターネットが制限されていました。又、離婚されようが子供が死にそうになっていようが集会を休んではいけないという極端な見方や、奉仕を休むと迎えに来る事とかいうこともありました。

今では乾杯や就職、4年生大学以上の教育を受けることが制限されています。

上の記事では一部の厳格な人たち(本当は協会の記事)が信者を苦しめるのを見て見ぬふりをしていたエホバは不義なのではないかとは考えないように勧めてますが、本当はだれに責任があるのでしょうか?
その人の人生をふいにしてしまうことが含まれているだけに事は重大です。
真のクリスチャンを自認するのであれば、聖書にはっきりと書かれている事柄以上のことは求めないでいるべきでしょう。

協会の説明のとおりにして問題が起きたらエホバとか一部の厳格な人(?)のせいにして組織は責任をとらないと言う姿勢は卑怯なのではないでしょうか。

この記事の1–2節には
「一部の証人たちには,個人としてそのような(「忠実で思慮深い奴隷」が愛をこめて,「時に応じて[霊的]食物」を供給していることに対して)確信を強める必要があるようです。協会は時折,出版物に載せられた説明に得心できないという趣旨の手紙を受け取ります・・」
とあり、細かな説明は「忠実で思慮深い奴隷」=協会がしている事を認めているではありませんか。

人の生き方に勝手に介入して人生をめちゃくちゃにしてしまう事は今後一切やめていただきたいです。

むしろ使徒 15:19‐20の
「…わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです…」
という統治体の言葉に留意すべきでしょう。


  1. 2007/08/17(金) 05:47:00|
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うそ、欺きについて

聖書の列王第一 22:21‐23には、
「…ひとりの霊が出て来て,エホバの前に立ち,『私が彼をだましましょう』と言いました。そこでエホバは彼に,『どういうふうにしてするのか』と言われました。22 これに対して彼は言いました,『私が出て行き,必ず彼のすべての預言者の口で欺きの霊となりましょう』。そこで,『あなたは彼をだまし,その上,勝ちを得る者となるであろう。出て行って,そのようにせよ』と言われました。23 それで,今ここに,エホバはあなたのこれらすべての預言者の口に欺きの霊を授けられました。…」
とあります。
エホバの忠実なみ使いがうそをつくことを申し出、エホバもそれをよしとしてるんですが、アハブが邪悪な人であったとはいえ、殺す目的でうそをつくのですから、これは悪意のあるうそではないのでしょうか?
洞察の本の1巻の280頁にも
「偽りやうそには普通,真実を知る権利のある人に偽りごとを語り,しかもその人や他の人を欺いたり傷つけたりする意図を持ってそうすることが関係しています。」
ともありますし。
アブラハムやラハブやダビデやイエスも不真実を語った記録がありますが、これは何故いいんでしょうか?
聖書を読む限り、ケースバイケースで処理されているように思うのですが。
でも協会の記事は偽りはすべて悪いって書いてるし???


  1. 2007/08/11(土) 21:46:44|
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14万4000人って?

啓示 7章4節には「…証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された」と書かれています。
この聖句がもとになっている証印を押されるという神のイスラエルの人数なんですが、「啓示の書の最高潮は近い」の 19章 118頁の14節にはこう説明されています。
「興味深いことに,ものみの塔協会の初代の会長,チャールズ・T・ラッセルは,この14万4,000人が霊的なイスラエルを構成する個々の成員の文字通りの人数であることを認めました。ラッセルは1904年に発行された,自著,「聖書研究」の第6巻,「新しい創造」(英文)と題する本の中で,こう書いています。「選びを受けた者[選ばれて,油そそがれた者たち]の定められた決まった人数は,啓示の書で何度か述べられているあの数,すなわち『人々の中から請け戻された』14万4,000人であることを信ずべき十分の理由がある」。ものみの塔協会の2代目の会長,J・F・ラザフォードの著した,1930年に発行された「光」(英文)と題する本の第1巻では同様に,「こうして,キリストの体の14万4,000人の成員は,選択され,油そそがれた,もしくは証印を押された者として示されている集められた人々の中にいるのである」と記されています。エホバの証人は,文字通り14万4,000人の油そそがれたクリスチャンが霊的なイスラエルを構成しているという見方を一貫して固守してきました。」
ラザフォード氏の意見はラッセル氏の見解の継続だと思われますが、ラッセル氏の指摘する十分の理由とは何なのかはここでは説明されていません。
難解な啓示の書に出てくる他の数字はほぼ全部が象徴的な数であると説明されているのにここだけ実数というのは不自然な感じがします。

12部族からそれぞれ1万2000人選び出されてトータル14万4000人という事が啓示 7章5節以降で述べられているので、12部族からそれぞれ1万2000人という数も実数と言うことですよね。

当時ラッセル氏が念頭に置いていた理由というのは信者の数であって、そのときハルマゲドンが来れば一世紀当時から数えてちょうど14万4000人位が救われる計算であったということではないのでしょうか?
今でもこの選びが継続されているのであれば一世紀当時から今までそれにあたいする人たちが14万4000人もいなかったということでしょうか?
ラッセル氏の時代以降もっと多くの人が信者になっているはずなのですが・・



  1. 2007/08/10(金) 05:10:53|
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結婚指輪と誕生日

塔92 9/1 の読者からの質問には、
「誕生日の祝いは迷信と偽りの宗教に由来しますが,そのことはエホバの証人がその慣行を避ける唯一の理由でも主な理由でもありません。
以前は宗教的な性質があった習慣でも,今では多くの場所でそのような性質を失っている場合があります。例えば結婚指輪は,以前は宗教的な意味を持っていましたが,今日ではほとんどの場所でそのような意味を失っています。そのため,結婚していることの証として結婚指輪をはめる,という土地の習慣を受け入れている真のクリスチャンは少なくありません。このような問題の場合にたいてい影響を与えるのは,ある慣行が現在偽りの宗教と結びつけられているかということです。
とはいえ,多くの参考文献が誕生日の祝いに迷信的また宗教的な歴史があることを明らかにしている,という点は否定できません。アメリカーナ百科事典(1991年版)には,「エジプト,ギリシャ,ローマ,ペルシャなどの古代世界では,神々や王や貴族たちの誕生日が祝われた」,またローマ人はアルテミスの誕生とアポロの日を祝った,と書かれています。そして,それとは対照的に,「古代のイスラエル人は男子国民の年齢を記録してはいたが,生まれた日の記念日に祝い事をしたという証拠は一つもない」と述べられています。」

もう一つ、乾杯について目85 4/8 27頁には
「パーティーやレストランで,人々が飲み物の入ったグラスを飲む前にカチンと触れ合わせることにお気づきですか。なぜそのようにするのかと尋ねても,大半の人々は答えられないでしょう。あるいは,友人の間でやることで別段害はないと感じているかもしれません。
しかし,そうすることが古代の迷信的な習慣であることを知ったら,その人たちは驚くことでしょう。米国図書館協会によると,幾千年も前の人々は,飲み物を飲むときには悪魔がその開いた口から体に入るというばかげた考えを抱いていました。そして実際に人々は,この悪い霊が大きな音によっておじけ付くと信じていたのです。それでこの危険を避けるため,人々は酒の入った器を触れ合わせて大きな音を出すのです。ヨーロッパでは,酒を飲む人々は今でもビールのジョッキを強くたたいたり,十字を切ったりします。そして,あるアフリカ人を含め,未開人の中には,飲み物を飲み干す前に鐘を鳴らす人々もいます。」
とあります。
これを見ると、大半の人にそのつもりがなくても起源が悪いか、他の一部の地域で宗教的な意味を持っていればだめと言うことのように思えます。

今日、誕生日が宗教儀式だなんて認識している人はいないと思うのですが(特に日本人)。
同様に母の日、父の日、敬老の日も母親崇拝を意識している人はほとんどいないものと思われます。
ネクタイもお守りの意味で始まったようですが、何にもなく使用していますよね。
一世紀当時のクリスチャンが指輪をしなかったという文献がないのでしてもいいと言うことでしょうか?
この辺の区別が分かりませんね。



  1. 2007/08/08(水) 17:59:19|
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